【正しい批判のために】パク・ユハ氏は「親日派(植民地主義肯定の帝国主義者)」か? | ANTIFA★黒い彗星검은혜성  だにえる단열の一言。

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 『帝国の慰安婦』を巡る訴訟やその著作によって批判のみならず、一部の人に誤解を受けているパク・ユハ教授だが、どういう考えの持ち主かということの紹介自体は必要と思い訳した。韓国の徴兵制の軍隊でおきた銃器乱射事件や集団リンチによる死亡事件に関して書かれたものだが、かなり考えさせられるいいエッセイだ。

しかし、『帝国の慰安婦』の中で氏は、朝日新聞や最近の慰安婦問題を語る有識者のように「日韓関係の良悪」に囚われたり、民族主義的被害者救済運動を批判しながら、国家的な枠組みで「慰安婦」被害者を分析しようとしたり、韓国の知らない人向けにアジア基金を紹介したつもりが、そのまま謝罪したという評価や基金への肯定に繋がりやすかったりする。そして、運動圏が苦手か嫌いなリベラルな韓国人知識人へとそれらが伝播していくが、問題の軸がいつまでも「日韓関係」から離れられない。

さらに、パク氏の間違いは、韓国における帝国主義に協力したかつての朝鮮(韓国)の人々自身の反省を促すつもりで、新しい視座として帝国‐植民地の関係の中での「慰安婦」問題を掘り下げようとしたが、「同志関係」という帝国主義的暴力の修辞で表現して失敗したことだ。なぜなら、結果的に「抱主」や「女衒」という業者の犯罪性からあらわれる「帝国への協力」は、帝国日本の植民地への暴力とその責任を稀釈した結果に過ぎなかったからだ。これにより、韓国の脱植民地主義的な批判をし、日本帝国の責任を追及する人々だけでなく、保守にさえ反感を買う事態となり、言論によって「親日派」とラベリングされてしまう。

また、民族主義?家父長的な性道徳によって固定された被害者イメージを解体するつもりで、別のエピソード(商業的側面?同志関係?)を掘り下げたつもりが、それは日本の保守派、右派、歴史修正主義派、日本の責任を回避する人々が主張する言説の一部としてすでに定着していたもので、根本問題が何かをはっきりしないままだと、それらの勢力が喜ぶのは当然の結実であった。

だからこそ、そのような問題の著作が「慰安婦」被害者を傷つけたのもまた当然であったと思う。誤解と非難、さらには批判を受けれる形になってしまって、心労している様子がパク氏のFBで分かる。しかし、いまだに「挺対協」との基金を巡る対立から積み重なった「被害者」を巡る対立といったものは、氏が問題をもっと運動圏で盛んに行なわれている議論を理解し、省察しない限り解決はできないと思う。(FBで日本の右派・保守派のコメントの返事を書くのであれば。)

最後に、私は国家といった枠組み(内地、植民地、敵地といった)で被害者の被害状況を分析しようとする氏のような「慰安婦」問題の考え方にはまったく組したくない。それこそ、帝国の植民地主義侵略・戦争とそれに基づく男性性による女性性の暴力的な搾取・利用と被害者の人権蹂躙の問題という根本的な問題は遠のくばかりで、そのようなアプローチにはそもそも解決はないのだから。このエッセイを読めば分かるが、氏はかなりリベラルな国家批判者ではある。しかし、だからといって『慰安婦』問題での氏の問題点は揺るがない。(拙ブログのパクユハ氏の問題点のメモこちらから

以下、FB投稿記事の翻訳


https://www.facebook.com/parkyuha/posts/931412296885685?fref=nf

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誰のための軍隊か。
 
 太平洋戦争のとき、日本の兵士は「天皇陛下」のために死んでいった。言い換えれば、玉体保全もしくは天皇を中心としてシステムの維持、この事実はとても明瞭に、戦争において軍人たちが命に代えなければならなかったものが、「国家(と思われている国民と家族)」ではなく少数の権力者たちが位置する「体制」であったことをみせてくれる。「体制」を「文化」と錯覚させようと作った教育は、彼らをも自身の死が「日本文化」を守るものであると考えるように作ったのだ。

しかし、日本が負けても兵士たちが考えたような日本文化はなくならなかった。天皇もやはりその席を維持した。変わったのは権力を内閣に渡し、「象徴」という名前で残ったということだけだ。彼の生活はまったく変わらなかった。(実は日本の平和憲法―戦争をできないようにした―は天皇維持と交換してできたものだ)
そのような措置に感謝する日本人もいたかもしれないが、「外地」に出た日本人のなかでも自身が死ななければ天皇もいないと考えた数多くの兵士たちが、命を投げ出したのに、天皇が依然としてその席に居座っている事実に、道徳が崩れ去ったという幻滅とともに「堕落」を選択した人もいた。

事実、軍隊は国民を守るものではなく、統帥権を所有する権力者を守る。近代の特徴の一つが国家/領土の概念がつなぐことで国家による軍事力の掌握であった。国民の「逸脱を管理する統率」がその目的であったと話したのはアンソニー・ギデンズであった。

ときには軍人が国民を守るどころか攻撃するのは、そのような理由からである。権力者たちが絶対に軍隊システムに対する疑問提起を許容しないこともそうだ。

一日二日でもなく、一、二年も隔離された空間で感情と身体を規律のなかにねじ込まなければならな状況で、自由なる魂たちが病んでしまうのは当然のことではないだろうか。さらに自身と他人に暴力を加えることができるのが「強者」である考える教育で育てられた青年たちならば。

いつまでも嘆いて憂慮だけしていればいいのだろうか。銃器自己に自殺に、今暴行の末の殺人まで。
軍隊がなぜあるのかもう一度考えてみて、どのように自殺者と暴力者を量産する教育とシステムを変えなければならないのか、模索することをこれ以上遅らせてはならないみたいだ。



누구를 위한 군대인가
태평양전쟁때, 일본의 병사들은 "천황폐하"를 위해서 죽어갔다. 다시 말해 옥체보전. 혹은 천황을 중심으로 한 시스템 유지. 이 사실은 너무나 명료하게, 전쟁에서 군인들이 죽음과 바꿔야 했던 것이 "국가"(로 여겨진 국민과 가족)가 아니라 소수의 권력자들이 위치하는 "체제"라는 걸 보여준다. "체제"를 "문화"로 착각하도록 만든 교육은, 그들로 하여금 자신의 죽음이 "일본문화"를 지키는 것이라고 생각하도록 만들었다.
하지만 일본이 졌어도 병사들이 생각한 것처럼 일본문화는 없어지지 않았다. 천황 역시 그 자리를 유지했다. 달라진 건 권력을 내각에 넘겨주고 "상징"이라는 이름으로 남았다는 것일 뿐. 그의 생활은 전혀 바뀌지 않았다.(실은 일본의 평화헌법--전쟁을 하지 못하도록 한--은 천황제유지와 맞바꾸어진 것이었다)
그런 조치에 감사한 일본인들도 있었지만 "외지"에 나가 있던 일본인들 중에는 자신이 죽지 않으면 천황도 없다고 생각하고 수많은 병사들이 목숨을 내던졌음에도 천황이 여전히 그 자리에 남아있다는 사실에, 도덕이 무너졌다는 환멸과 함께 "타락 "을 선택한 이들도 있었다.
사실 군대는 국민을 지키는 것이 아니라 통수권을 소유한 권력자를 지킨다. 근대의 특징 중 하나가 국가/영토개념과 연결짓는 일로 국가에 의한 군사력의 장악이었다, 국민의 "일탈을 관리하는 통솔"이 그 목적이었다고 말한 건 앤서니기든스였다.
때로 군인이 국민을 지키기는 커녕 공격하는 건 그래서이기도 하다. 권력자들이 절대로 군대시스템에 대한 의문제기를 허용하지 않는 것도.
하루이틀도 아니고 일이년씩 격리된 공간에서 감정과 신체를 규율아래 구겨넣어야 하는 상황에 놓이면 자유로운 영혼들이 좀먹고 병드는 건 당연지사가 아닐까. 더구나 자신과 남에게 폭력을 가할 수 있는 것이 "강자"라고 생각하는 교육에 길들여진 청년들이었다면.
언제까지 우리는 탄식하고 우려만 학 있어야 할까. 총기사고에 자살에 이제 폭행끝의 살인까지.
군대가 왜 있는지부터 다시 생각하고, 어떻게 하면 자살자와 폭력자를 양산하는 교육과 시스템을 바꿀 수 있을지. 모색하는 일을 더이상 늦춰선 안 될 것 같다.



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さらに、別の話しだが、

 パク・ユハ氏は「慰安婦」強制否定論者の日本の保守にどのように受けいられているのか?
という疑問のなかで、(多くの日本の右翼がパク氏をイメージだけで支持しているなかで)面白い記事を発見したので紹介する。パク・ユハ氏の『帝国の慰安婦』の論点を、ここまでフェミニズム、脱植民地主義(ポスコロ)の思想として、読解した保守も珍しい。(ある意味ではパク氏の戦略が伝わった?かもしれない)出典はアゴラで、歴史修正主義で、性差別主義者の右翼・保守が集まり、意見を書く(池田信夫が主筆)ブログ論座だ。
5日以降、朝日新聞が「慰安婦」問題特集を組んで、議論の整理と省察のために強制的に婦女を拉致したという吉田清治氏の証言「吉田証言」を撤回したことに、これで「強制連行」はなかったと、アゴラのなかでは嬉々として(イケノブなど)お祭り状態である。「慰安婦」問題とは、ほんとうに本質的に〈狭義の強制性(拉致・強制連行など)〉だろうか・・もちろん、本質はそこではない。さらに言えば、「吉田証言」が撤回、否定されたからといって、「慰安婦」問題の被害状況と実態のなかで、強制性が否定されることもなければ、狭義の強制性が否定されることでもなく、ましては、日本国の責任が免れるわけでは絶対にない。

【注)この論者の長岡亨は、かなりの国家主義者で、イデオロギー(フェミニズム、脱植民地主義)の対立なら日韓関係は断交すべきというかなりの保守・右翼の論者である。】
しかし、パク・ユハ氏に近寄るFBの日本人友人たちは、歴史修正主義の保守・右翼が多いことに変わりはない。下のリンクの記事のコメントを読めば分かるが、氏はこういうのを野放しにするからこそ、さらに誤解を受けていることに気づいた方がいいのではないか。
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=934231029937145&%3Bset=a.296221900404731.91201.100000507702504&%3Btype=1

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http://agora-web.jp/archives/1601796.html


1、パク・ユハ(朴裕河)は「親日」韓国人か?

韓国・世宗大学教授のパク・ユハ氏(朴裕河、以下、パク)が書いた『帝国の慰安婦』なる本に"慰安婦は売春婦だった"とあることで、同書の出版差し止めを求める仮処分申請が韓国内で出された。この事実をもって、パクがあたかも「親日」韓国人であるかのごとき評価をしている者がいる。

パクの主張は、一見すると韓国政府に反するものだ。「慰安婦は売春婦だった」という認識は、あたかもパクが韓国の意に反して従軍慰安婦問題で日本寄りになったかのように誤読できてしまう。「従軍慰安婦は売春婦だったと韓国の学者も述べている。売春婦を強制的に連行した事実は確認できないし、しかも日韓基本条約で賠償済みだ。日本政府による賠償は良心的だった」と。

だが、パクは親日でも日本政府寄りでもない。現にパクは、ソウル大学の李榮薫教授(「強制的に引っ張られていった」、「慰安婦」はいなかった、慰安婦20万人説は誇張)ばかりか、吉見義明(「官憲のような奴隷狩りのような連行」が朝鮮・台湾であったことは確認されていない)、吉田清治(氏の回想は「証言として使えないと確認」)、さらには上坂冬子・櫻井よしこ・曽野綾子らの主張を紹介しつつ、

「日本の右派はそのような主張を根拠に、「慰安婦はなかった」と強弁している〔が誤りだ〕」(注1、カッコ内引用者)

としているからだ。

あらかじめ述べておく。パクは「親日」などではない。彼女のスタンスは、そのような単純なものではなく、もっと根の深い“理論武装”をしている危険思想の持ち主である。


2、「新しい」慰安婦問題論とは

パクの主張は、「日韓基本条約締結にともなう賠償は、日本が「帝国」として起こした「植民地支配」の枠組みに基づく賠償ではなかった。「女性のためのアジア平和国民基金」による賠償には植民地支配に対する意味が少し含まれてはいたが不十分なままとなっている。いまこそ日本政府は、「植民地支配」という新たな枠組みに基づく国家賠償を、慰安婦に対してなせ」というものである。(注2)

朝鮮人女性が「慰安婦として」募集されたのは、朝鮮が日本の植民地だったからからであり、慰安婦への賠償は「植民地支配」という枠組みの中で行われるべきであったのにそうではなかった、したがって、「戦後」処理であって「植民地支配」処理でなかった日韓基本条約をもって、慰安婦問題に対する賠償が終わったとすることはできない、と主張している。(注3)

つまり、日本が「帝国」として犯した罪=「植民地支配」を公式謝罪させ・補償させる、と言っているのである。『帝国の慰安婦』の「帝国」とは、以上のような過激な意味なのである。

日本人の感覚からいえば、日本軍によって、女性が強制連行され・売春婦にさせられたか否かという「歴史事実」の有無こそが重要なのであるが、パクが言う「強制性」とは、「日本(軍部)による強制連行、人身売買」といったような、通常の争点と同義ではないことが、これで了解できるであろう。


3、「河野談話」当時の「従軍慰安婦」問題は、もはや日韓に存在しない
さらにこうも述べている。

「娘を売り渡す父親というものは、もとより家父長制のもたらした存在である。さらに「朝鮮人労務者」と「朝鮮人兵士」が日本という国家と日本企業による被害者であることも事実だ。しかしそうだとしても、慰安所を利用した日本人兵士が加害者であるなら、彼らに「慰安婦」に対する「加害」の部分がなかろうはずはないのである。」(注4)

これはもはや、「河野談話」が発せられた当時の「従軍慰安婦」問題ではない。日本が韓国に納得させようとしている論点とは全くことなっており、非対称である。「強制性はなかった」という真実を提示することによって修復し、歩み寄れる論点は存在しない。「従軍慰安婦」への「強制」があったかどうかという歴史的事実の検証を問題にしているのではなく、日本軍による強制があろうがなかろうが、国家・戦争・男・兵士・家父長制・(現在から遡及した)負の歴史があれば「賠償」しなければならない、というイデオロギーだからだ。

たしかに、韓国政府が公式にパクの見解を採用したとは思われない。しかし、海外で韓国がおこなっている日本バッシングは、歴史事実や国際慣例を度外視し、思想的な要求を満足させようとするものだ。在米韓国人その他の在外韓国人による常軌を逸した対日プロパガンダは、おおむねパクの論点そのものか、国家を呪詛し、際限なく歴史を遡及・拡大していく性質を含んでいるのである。


4、対日「思想」戦の宣戦布告をなした韓国との間に「和解」はありえない

韓国政府は、「国家を守る」という美名で惑わし(注5)て兵士を動員し、「彼らの身体と生命を搾取して・・・・・・つらい境遇を生きるようにさせ」(注5)る可能性をゼロにできない朝鮮半島有事対応を、自縄自縛することになる。さらに、「帝国」であった西洋諸国をも「謝罪」と「賠償」の対象としているように、パクの思想は結局、半島有事に対する友邦の援助や支援をためらわせ、”遅れてきた「帝国」”中国/「軍国主義」国家・北朝鮮に奉仕するものとなる。こともあろうに米国や西洋諸国において、事実に基づかない虚偽事実によって日本を攻撃している。自国を守ることにもなる日米同盟を揺るがせ、韓国自身の存立をも危うくしている。「国家」に寄生しながら国家を破壊に導く「市民」や「住民」「個人」など“非国民”の主張する権利や賠償、補償など一顧だにしてはならない。

韓国の姿勢は、自国の脅威への対応を他国任せにし、その過程で発生した負の部分をすべて他国になすりつけるという、自立心のかけらもない姿そのものである。そしてこの光景は、明治時代の人が、さんざん苦慮し、苦汁を舐めさせられた隣国の実態そのままではないのか。歴史に学び、歴史を教訓とすれば、このような国家と友好を深めることなど考えられない。

韓国との間に「和解」などありえない。韓国は、歴史検証問題をすでに通り越して「対日思想戦の宣戦布告」を日本に対してなしているからだ。もはや悠長に「河野談合」(注6)を検証している段階ではない。検証を速やかにかつ確実に終結させ、対日偽報への対応にシフトしなければならない。「談合」発表を契機に「断交」を射程に入れる時がきていることを、特に日本の政治家は自覚すべきだ。(了)



1.朴裕河著、佐藤久訳『和解のために──教科書・慰安婦・靖国・独島』平凡社ライブラリー、2011年、p.89.
2.「転換期の日本から──今ふたたび「慰安婦問題」を考える」(全11回)、「WEBRONZA」(朝日新聞社のウェブマガジン)。
3.朴裕河「問題はどこにあったのか──日本の支援運動をめぐって」、志水紀代子、山下英愛編『シンポジウム記録 「慰安婦」問題の解決に向けて──開かれた議論のために』白澤社、2012年、pp.97-120.
4.前掲『和解のために』、p.120.
5.前掲『和解のために』、p.92. 
6.「河野談合」とは、「河野談話」を揶揄する言葉。「河野談話」が韓国との刷り合わせにより発表された事実が報告書「慰安婦問題を巡る日韓間のやりとりの経緯─河野談話作成からアジア女性基金まで─」(2014年6月20日)で公表されたことを契機に生まれた。


長岡 享
http://agora-web.jp/archives/1601796.html
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